神様の第一のみこころ
レビ1:1~9 もしそのささげ物が、牛の全焼のいけにえであれば、傷のない雄牛をささげなければならない。それを、彼が主の前に受け入れられるために会見の天幕の入口の所に連れて来なければならない。その人は、全焼のいけにえの頭の上に手を置く。それが彼を贖うため、彼の代わりに受け入れられるためである。(3~4)
定刻礼拝のための讃美/ 204番 つみとがをゆるされ
人間の行為の中で一番美しい行為が礼拝です。イスラエルが荒野を歩いて行く間、幕屋が生活の中心でした。しかし、彼らが続けて見つけ出すべき内容は、礼拝です。アブラハムが祭壇を築き始めたとき、故郷のカルデヤで見ることのできなかった重要なことを悟るようになりました。モーセが王宮にいるときは見ることができなかったのですが、主の前で礼拝をささげた後に正確に知るようになりました。こころを定めて神様に礼拝したダニエルと、大きい危機でも礼拝しながら聖霊を待ち望んだ初代教会は、神様の奇跡と聖霊の働きを体験しました。このすべては礼拝が回復する時に起きることです。
1. 礼拝の本質と答え
礼拝するときに起きることがあります。聖霊の実際的な働きが起きて、天の門を開いて私たちを祝福されます。天の軍勢が送られ、この世の暗やみの勢力が崩れます。これを指して「神の国が臨んだ」と表現し、これを味わうことが礼拝です。神様はこのように礼拝する者を探しておられます。霊的に最も強くなる状態がまさに礼拝です(マタイ12:28)。礼拝すると、見る目も変わります。私が一番さびしいときが、かえってインマヌエルが最もよく味わえる時間です。ヨセフ、モーセ、ダビデのような人も限界と無能を経験するとき、神様を待ち望みながら、むしろ、大きな答えを味わいました。福音を持った者、礼拝の奥義を知る者は、このような答えを受けて味わうことができます。
2. 礼拝に絶対に必要なこと(犠牲のいけにえ)
人間は災いと運命、サタンと罪の問題から逃れることはできません。今日の本文には動物の血を注ぎかけるようにと言われます。またその動物の上に按手しなさいと言われました。このように、すべての人類の呪いをイエスの頭の上にみなのせられました。私たちのすべての罪と弱さを担われて(イザヤ53:1~6)、私たちの病気も全部担われました(マタイ8:15~17)。イエス・キリストの血によって神様に礼拝する身分と権威を回復したのです。私たちが記憶するべきことがあります。礼拝のときささげる祈りは、主にかぐわしい香りとして届きます。そのため、礼拝の前に、礼拝中にする祈りが重要です。ともにする礼拝、一人でする礼拝、生活の中に入っていく礼拝の祝福を見つけ出さなければなりません。私の生活を聖なるいけにえとして受けることを神様は喜ばれます。
- さまざまな理由で神様を味わう礼拝を逃してはいませんか。私が逃している礼拝や礼拝中に逃している契約と祝福はないか調べて更新しましょう。
インマヌエル教会聖日1部 / 2010.12.5