二番目の石の板
出34:1~9 モーセは急いで地にひざまずき、伏し拝んで、お願いした。「ああ、主よ。もし私があなたのお心にかなっているのでしたら。どうか主が私たちの中にいて、進んでくださいますように。確かに、この民は、うなじのこわい民ですが、どうか私たちの咎と罪を赦し、私たちをご自身のものとしてくださいますように。」(8~9)
定刻礼拝のための讃美 427番 日ごとよろこび
本文に出てくるモーセの祈りは、私たちが学んで理解しなければならない祈りです。デール・カーネギーは、人が生きていく中で事故や病気のような問題もあるけれど、それよりももっとつらい問題は「苦しみ」だと言いました。イスラエルにとって荒野生活自体が苦しく、人の問題、自ら造った偶像問題、経済問題、家庭問題などで苦しみがくり返されます。このときにくださった神様の御声を聞かなければなりません。
1. まず握らなければならないこと
聖書に記録されている神様のみことばは、7千個以上が成就して、今も成就し続けています。重要な情報も、人のことばも正確に聞いてこそ生きていけるのに、ましてや神様のみことばを正しく聞くならどうなるでしょうか。みことばは世のはじめから存在され、天地を創造された神様の力であり、信仰の祖先と人類に与えられた唯一の解答です。みことばで神様はご自身を「主」として表すことを喜ばれます。モーセを最初に呼ばれた現場も、モーセに新しい契約を与えられた荒野の道でも「主」を悟ることを願われました。福音だけが生きる道であることを説明されました。数千年前に出エジプトした当時、イスラエルに与えられたみことばが、今日私たちにいのちとなることは驚くべきことです。代を引き継いで私たちの次世代に伝えることはただみことば、ただ福音だけです。
2. みことばと祈りの中へ
とても簡単に見えるけれど、だれにでもできるわけではないことがあります。霊的な力がある者、神様の子どもだけができることです。それがまさに「祈り」です。世の人も、世の宗教もみなしているけれど、祈りの答えを受ける者は少ないです。みことばが信じられ、キリストを悟ることができるということが、私たちが神様の子どもだという最も大きな証拠です。私たちの生活の中で、福音を日々、瞬間ごとに体験する方法が祈りなのです。世に広まっている千の考えをすべて聞き、万の声に耳を傾けて疑い、かっとうすることは大きな損です。未来のためのどんな貯蓄や保険よりも、神様の子どもが当然味わう祝福が祈りです。このように答えを受ける私たちを主の御国を受け継ぐ者としてくださいました。私たちが神様の御国を受け継ぐ者であるならば、私たちの今日と未来は神様が責任を持たれます。ですから、人に頼らず、人のことばに耳を傾けずに神様のみことばを握って祈ることが祝福の始まりです。
-みことばの中で神様を体験し、瞬間ごとに祈りの祝福を味わう神様の子どもの一日となりますように!祈りを持続することができる霊的な力を回復させてください!
インマヌエル教会聖日1部/ 2010.6.6.