いのちまでかけた同労者
ローマ16:3~4 キリスト·イエスにあって私の同労者であるプリスカとアクラによろしく伝えてください。この人たちは、自分のいのちの危険を冒して私のいのちを守ってくれたのです。この人たちには、私だけでなく、異邦人のすべての教会も感謝しています。
定刻礼拝のための讃美 381番 誠をつくせ
私たちは神様の子どもであるため、どんな苦しみにあっても恐れる必要はありません。神様の計画を成し遂げることなら恐れる必要はありません。聖書を詳しく見ると、福音のためにいのちをかけた人には、すべて神様が働かれました。実際に死んだ人もいますが、死んだ後にはより大きい働きが起きました。本文に、福音のためにいのちまで惜しまなかったプリスカ夫婦は、伝道者のためにいのちまでかけました。いのちまでかけられた理由は何でしょうか。
1. プリスカ夫婦の人生
プリスカ夫婦はAD52年ごろローマから追放されました(使徒18:1~4)。難民のようにローマから追い出されましたが、コリントで伝道者パウロに会って、ともに天幕を作る事をしました。やっと食事ができる程度でしたが集めたすべてを宣教費に出しました。そして行き来するすべての人々に自分の家を提供して食べさせて伝道するように助けました(Ⅰコリント16:19)。このようにして一人ずつ伝道者に立てました。ローマでの追放令が解けた後にもプリスカ夫婦はローマに戻らず、使命者がいるエペソ地域に入り(Ⅱテモテ4:19)、後にはローマ市アベンティンという地域に埋められました。この意味は、結局、時刻表になった時にはローマ福音化のために行ったということです。
2. すべての教役者と異邦人のすべての教会を助けました
お金をどのように使っているのかがその人の姿です。プリスカ夫婦はすべての教役者と異邦人のすべての教会を助けました。彼らのために経済を使うことがすべてであるということをこの夫婦は悟りました。異邦人のすべての教会が感謝するということは、プリスカ夫婦がパウロの以外にも多くの次世代と弟子を助けたということです。これがいのちをかけたということの意味です。
3. 死んだ殉教より生きた殉教がさらに重要です
ある意味では死ぬのがよりやさしいです。しかし、実際に死んでいないのに殉教したように生きることは難しいことです。生きた殉教の意味は何でしょうか。実際に自分の貴重なすべてを持って世界福音化のために仕えるのが生きた殉教です。三つのことを正しく知れば、そのような人生を生きるようになります。それは福音が何かを真に分かり、伝道と宣教を本当に分かったという意味です。これを知れば、いのちはかけられるものです。伝道者のためにいのちをかけたプリスカ夫婦に、神様はその当時最高の経済を与えてくださいました。
-人々は福音と関係のないお金と名誉と権力を得るためにいのちをかける覚悟をします。私はどうでしょうか。キリストの中にこのすべてがあるのに、私はキリストのため、福音と伝道のため、どのような中心を持っていますか。
インマヌエル 聖日2部 / 2010.1.24