安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ
出20:8~11 それは主が六日のうちに、天と地と海、またそれらの中にいるすべてのものを造り、七日目に休まれたからである。それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖なるものと宣言された。(11)
定刻礼拝のための讃美 492番 この世のたびじに
人間に絶対に必要で重要なことは何でしょうか。いろいろあると思いますが、そのうちの一つはまさに「安息」です。肉体的な安らぎのためにも、心と精神のためにも安息が必要です。それよりもっと重要なことは霊的な安息です。多くの人がその安息を追い求めて哲学を学び、宗教も持ったりしますが、真の安息と安らぎはないのです。人間のたましいの虚しさは、ただ神様によってのみ満たせるからです。それにもかかわらず、別のところで安息を求める人が大多数です。人に頼る者は、結局、答えを見つけることができません。それでは、安息日を覚えて、聖なる日とせよという意味は何でしょうか。
1. 神様が与えられる安息を得なさい!
だれにも気付かれずに苦しみを与える存在が実際にあります。努力してもがんばっても無くならず、次々と来る問題があります。現代科学も解決できない霊的な問題は成功した後にもっと大きく現れてしまいます。そのような人生の問題の前で、神様の御声を聞くことができなければなりません。イエス様は私たちの霊的な問題、心の傷、病を背負うために、十字架を負ったと聖書は語ります(マタイ8:17、マタイ11:28~30、イザヤ43:1~6)。十字架の力は自分の霊的な問題と呪いはもちろん、時代の災いの問題まで解決されたいのちの恵みです。その力が私たちの中で完全なものとなるとき、真の安息を味わうことができます。六日間は一所懸命に働いて、一日は心を尽くして神様に礼拝をささげ、みことばを聞いて賛美し、信徒の交わりの中にいなければなりません。安息と平安はただ神様から来るものだからです。
2. どのようにして得ることができるのか!
神様が与えてくださる安息と平安は祈りの中で見つけることができます。神様は私たちにある問題をご存知です。神様が私たちとともにおられるインマヌエルの奥義をもって祈り始めれば、主が与えてくださる答えと平安を味わうことができます(エレミヤ33:1~3)。イエスがキリストであることが人生の解答となり、キリストがキリストとなって人生の主人となるとき(Iペテロ2:9)、サタンの力を打ち砕く霊的な祈りが始まるのです。その中で見出される神様の計画を私たちのビジョンとして握るなら、もっと具体的な祈りが始まります。成し遂げられるビジョンの絵を描きながら定刻に、常時に祈ること!それは、答えられるしかない祝福です。
-祈りの中で神様から得る安息は、私たちにとって力と余裕となります。そのような力と余裕が自分にありますか。礼拝を通してくださる答えが瞬間ごとに自分の中にあるのか、見てみましょう。
インマヌエル教会聖日1部/ 2009.8.9